民族学博物館で「みんぱくウィークエンドサロン」が開催されており
「異教徒の地」と「光の地」:パキスタン・アフガニスタンのカタ人とカラーシャ人
というテーマのお話を聞いてきました。
この講義の中で、なるほど!と思ったお話がありました。
それが、「浄」と「不浄」に関するお話。
独自の多神教を信仰しているカラーシャ人には独特な信仰での考え方があります。
オンジェシタ:男性、ヤギ、小麦、杜松、木、ワイン、蜂蜜、聖域
プラガタ:女性、イスラーム教徒、ニワトリ、月経、出産、産屋の女神、墓地
「オンジェシタ(カラーシャ語) = pure(英語) = 浄(日本語)」
「プラガタ(カラーシャ語) = impure(英語) = 不浄(日本語)」
と訳しているそうなのですが、日本語の字面の印象では、浄=綺麗なもの。不浄=汚いものという認識を持ってしまいます。ところが、
オンジェシタ(浄)とは、神に直接関係することのできる存在。
プラガタ(不浄)とは神に直接関与してはならない存在。
なので、綺麗、汚いというそのまま日本語に訳してバッチリ100%通じる概念ではないのだとか。
今回の講義を聞いて、概念や感情を表す言葉というのは、文化や歴史が理解できていないと誤解を生むものなのだということを改めて気づきました。
たぶんそれは同じ言語圏に住む日本語同士であっても、感情を表すものや概念を表すものには、発する側と受け取る側で、100%の思いを伝えるのはとても難しいことなのだと思います。
言葉をそのまま自分の中の定規で言葉通り直訳して判った気になったり、これは浄、これは不浄と自分の世界感で決めつけてはいけないのだなと・・・。
それぞれの文化、歴史、宗教感、時代そういったものでも大きく言葉の持つ意味やパワーが変わってくるのだと感じました。
言語学と南アジア研究が専門の先生で、カタ人とカラーシャ人では言語が全然違うんですよ。近い地域に住んでいる人たちだけれど、別の共通言語を持ってこなきゃ言葉が全く通じません。宗教も違います・・・というところが本筋のお話だったのですが、私の中で一番心に残ったのが「浄」と「不浄」の概念でした。